灰街令 試作集

灰街令の試作集

ヨハネの犬

 上の向こうには、光を裏側にたっぷりとふくんで透かし見せながらも、決してそれらを塊として射し入れることのない、灰色のかさなりの群れがあった。
 前の向こうには、上下前後に静かに揺れ、上の向こうから漏れ出た光の雫をぴかぴかとこちらへと反射させ続ける、みどりがかった柔らかな透明があった。
 こちら側には、真っ白のさらさらとした無数の小粒があった。
 今あげたものたちが形作る薄明るい広がりの他には、そいつがいるだけだった。
 このことは、そいつが長い時間かけて這いずりまわって確かめたことだった。もう少し時間をかけて調べたらなにか見つかるかもしれないという思いは、そいつにはなかった。どれくらい這いずりまわっていたかはわからないが、そいつは幾分のあいだ這いずりまわって、ここにあるすべてのものについて納得したのだった。

 そいつは思うということをした最初の時からここにいたし、それ以外の思い出はひとつもなかった。けれど、ここという考えはあった。つまりここではないどこか、ここにあるものではないなにかという考えを直観していたということになる。

 そいつはいつも、目の前の静かに揺れるみどりがかった透明と、こちら側の真っ白なさらさらの境目のあたりに寝そべっていた。そいつは動かなかった。這いずり回るために使ったよっつの突起のうちの、前にあるふたつで透明に触れながら、たまに顔を傾けては音を聞いていた。そこからは自分がふと唸る時と似た音や、ぜんぜん違った音が聞こえた。だからそいつは、自らと似た誰かや、自らと全く異なった誰かがどこかにいることを知っていた。誰かはなにかとは違うものだということも直観していた。柔らかな透明はどこまでも見渡すことができて、そのどこにも誰かはいなかったから、そうした音は、ここではなくどこかで鳴らされてここまでやってきたのだと思ったのだった。

 そいつは音を聞くだけでなく、たまに自らも音を鳴らした。どこかに音が届くかもしれないという思いもあったが、届いた誰かの音に自らの音が混ざり合うことを好いていた。それはそいつにとって楽しいことだった。そいつは常にどこかの誰かに触れている気持ちだった。

 そいつがその気になればここは真っ暗になったし、その気になれば再び薄明るくなった。しばらく透明と戯れたあと、ここを真っ暗にして休み、またしばらくすると再び薄明るくして透明と戯れることを繰り返した。そしていつも、ここを真っ暗にしている間に、赤や紫の色鮮やかでぶよぶよとした塊がかたわらに置かれているのだった。そいつはそれが現れる瞬間を見つけてやろうと、真っ暗と薄明るいを何度も素早く交代させたこともあったが、そうした試みもやがて疲れてやめてしまった。ぶよぶよとした塊は、そいつの内側に入れるべきものであることが、初めからそいつにはわかっていた。塊を内側に入れるたびにそいつは元気になった。このことはそいつにとって嬉しいことだった。

 こうした長い繰り返しの中で、そいつは、透明の揺れから同じ音が何度も聞こえていることに気がついていた。そいつはすべての音が好きだったが、その音を特に愛していた。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 そいつはその意味を知らなかったが、首を傾げた後、それに応えるようにただ唸った。

 暗闇と薄明かりが幾度となく繰り返された。
 そいつはもう見ることができなくなっていたが、薄明かりを感じていた。だからそいつには、もう暗闇はなかった。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 そいつはその意味を知らなかったが、首を傾げた後、それに応えるように、ただ唸った。

 薄明かりがどこまでも続いていた。
 そいつはもう聴くことができなくなっていたが、無数の音が鳴っていることがわかっていた。だからそいつには、もう沈黙はなかった。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 そいつはその意味を知らなかったが、首を傾げた後、それに応えるようにただ唸った。
 無数の音が過ぎ去ることなく現れて、また現れた。

 そいつはもう感じることができなくなっていたが、二つの突起に触れる透明が消えないことを知っていたし、鮮やかなぶよぶよの塊が現れることも体内に入っていくことも知っていた。だからそいつには、もう疲れはなかった。

 こことどこかの区別はもうなかった。ここはすでにどこかになっていた。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 すべてのなにか、すべての誰かが在り、続いていた。ないものはなく、終わるものはなかった。

 どこかで誰かが蘇る音が鳴った。