試論たちの箱庭

とある音大生による試論

「キャラジェクトの誕生」補論――杉本憲相について

 筆者はたった今こちらにキャラクター文化論的な内容の文章を掲載したところである。

 そこでは3DCG技術やVtuber文化がキャラクターの存在論的立ち位置を大きく変えていることを述べた。主に「キャラクターの身体の現前」が重要な論点となるのだが、このヴァーチャルなものの身体性というテーマはキャラクター文化に興味がある人以外にも関係する時代的テーマだと思われるのでぜひ読んでほしい。

 

school.genron.co.jp

 

 

 

 

 そしてこちらでは上記の論文で文字数と構成の都合上入れることができなかった部分を補論として掲載する。とはいえ独立して読めるものにはなっていないと思うのでぜひ掲載した本文の方を読んだ後から読むことをおすすめしたい。

 

 

付記

??? 3Dの問題系 オブジェクト性の美学

 しばしばゼロ年代批評は「表現論」に弱いと言われてきた。たしかにキャラクター概念を「データベース」や「ゴースト」という言葉で分析してきたゼロ年代批評はキャラクターを用いた表現については語ることが少なかったように思われる。そのため本論ではキャラジェクトの概念をでき得る限りその表現との関係でもって定義してこようとしたわけである。本節では表現と概念をより繋げるため現代美術における「キャラジェクト」を考えてみたい。
 塚田の「キャラクターを、見ている」は元々「美術手帳」の第15回芸術評論募集における次席論文だったことに注目してみるならば、この募集の第1席であるgnck「画像の問題系 演算性の美学」もまた奇しくも美術評論における「準キャラジェクト論」だったことは面白い偶然である。gnckは中ザワヒデキ二艘木洋行の作品を例にとりながら、その画像の荒れを強調する画風に一種のデジタル時代のメディウムスペシフィシティを見出していく。これが塚田がキャラクターの「線」の現前へ注目したことと同型のものであることは容易に見てとれるだろう。
 あるいは梅沢和木のネット上の画像(主に萌えイラストである)をコラージュして作られた作品は、元のイラストが萌え要素にまで分解されることでデータベースの存在の現れをweb上に見出すという、データベース主義的な作品である。
 しかし、本論では「キャラジェクト」的な新しいキャラクターアートこそを発見すべきだ。
 ここで杉本憲相の「風景片」シリーズを見てみよう。

knsksgmt.wixsite.com


 杉本の風景片シリーズにおいてはデータベース的な萌え要素は現実世界の立体として「拾った建材」という支持体に出力されている。しかしそれはうまく合致することはない。キャラクターというオブジェクトと「拾った建材」というオブジェクトは関係はするが別のオブジェクトであり「脱去」しているからだ。3次元空間では萌え要素は「幽霊」ではなく「ゾンビ」を構成する「オブジェクト」になってしまう。そしてそのオブジェクトが「脱去」したまま関係することで生じる「作品」は「袋詰め」による第3のオブジェクトである。本論をここまで読んできたものであればこれがVtuberの反転であることがわかるだろう。Vtuberは生身の身体をヴァーチャルなオブジェクトに出力する。対して杉本作品ではヴァーチャルなものがオブジェクトとして生身の建材に出力されている。そしてその身体性の現前は身体のバグと破壊によって前景化されるのである。
 現実とヴァーチャルを相互にオブジェクトと見なしそれらの間を行き来すること。その時に起こる齟齬は現実とVRが異質な空間だからではない。それらは一つの空間でありその齟齬も含めて一つのキャラジェクトが作られることは「バーチャルのじゃロリ狐娘youtuberおじさん」で既にみたとおりだ。オブジェクトとオブジェクトは「脱去」しているが故に私たちは他者と出会う時必ず「ズレ」が生じるのである。これは悲観すべきことではない。この他者の汲みつくせなさ自体がその自律性を担保しており、またそれらと「相互包摂」の関係を結ぶ第3のオブジェクトも常に生じているからである。杉本の作品は「キャラジェクト」を巡るこのような想像力を喚起してくれる。
 現代美術にもまた「データベース」の原理から「キャラジェクト」の原理への旋回が見受けられるのだ。