灰ノ論集

とある音大生による論考集

『ゆらめくかたち』と「線の音楽」 ――黒坂圭太の音楽性について

 本論では、2017年12月23日に小金井の現代座ホールにて行なわれたイベント『ゆらめくかたち 不定形のヴィジョン 黒坂圭太X鈴木治行』について論じようと思う。
 私が「イベント」という言葉を使ったことにはわけがあり、それは、『ゆらめくかたち』が「上映会」/「演奏会」/「ライブ」という形式が混在した企画となっていたからである。
 本企画は、第1部で黒坂圭太の映画(劇版は鈴木が担当している)「マチェーリカ」が上映され、第2部は鈴木治行ピアノ曲3曲のピアニスト河合拓始による演奏、最後の第3部では黒坂がライブドローイング、鈴木が即興演奏を行なうという構成となっていた。
 これよりその一つ一つについて考えていこうと思う。

 

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 『ゆらめくかたち』のパンフレット。各部ごとの演目が記載されている。          (https://www.facebook.com/events/1535425143232185/より) 

 

 

Ⅰ. 
 まず黒坂圭太による「マチェーリカ(2016)」の上映であるがこれを観ている時、私にはある音楽性が、たしかにどこかで聴いたことのある音楽性が感じられた。

 「マチェーリカ」では終始抽象的な映像――黒坂が鉛筆でドローイングした様々なテクスチャー――が次々にオーバーラップしていき、すこしずつその質感を変えていく。私にはそれが、時に風景のように、時に人や動物のように、時に炎や水のように観えたのだが、そのかたちはあまりに意図的に曖昧かつ抽象的であり、おそらく私の――というよりも人間の脳の――曖昧な形態にもなにかしらのゲシュタルトを見出してしまう認知機能が作りだした幻影にすぎないのだろう。これは心霊写真が生み出される原理と同じものだ。
 あるいはあたかもロールシャッハテストの如く、私があるドローイングになにかのゲシュタルトを見出している時にきっと他の観客は全く別のゲシュタルトを見出していたのだろうと思う。
 これは画面のどこに焦点を合わせて観ていたかによっても変わってくる。
 ある時風景に見えたものが、次の瞬間に風の動きのように観え、そうしているうちにまた、ただの混沌的質感に戻るといった知覚のゆらめき。このゆらめきは、曖昧なかたちのドローイングとその絶えざる変化、そしてそれが画面上のあちこちで単一の焦点を決定することなく行なわれるということによって引き起こされていたのである。

 先程も述べたように私はこれを観ながらある音楽を思い浮かべていた……というよりもその音楽を聴くときに受け取る感覚、脳に引き起こされる現象を感じていたといった方がよいかもしれない。
 それは、「マチェーリカ」の音楽を担当した鈴木治行の大学生時の師でもある、近藤譲(1947-)の音楽である。
 近藤は自身の音楽を「線の音楽」と呼んでいる。近藤の音楽について私は以前に文章を書いているのだが、

reihaimachi.hatenablog.com

ここでは要点を箇条書きにして説明しておこうと思う。

 

1.近藤の音楽では差異と反復はどちらも微細にそして曖昧に用いられており、様々な音楽的構造が現れてはすぐに消えてしまう。私たちはその構造を曖昧にしか認知することができず、また一つの音楽的形態に様々な(不完全な)構造性が生じている。

2.聴き手はその音の迷宮の中から音の連なり――ゲシュタルト――としての線的時間を主体的に紡ぎ出していく。

3.そこで紡がれる旅としての音楽は聴き手それぞれによって異なっている。

 

 これはまさに黒坂の映像と同じ仕組みといえるだろう。そこでは混沌とした迷宮の中に他者へと開かれた複数の秩序が可塑的に内在しているのである。

 では「マチェーリカ」における鈴木の劇版音楽はどのようになっているのだろうか。
 まず注目すべきは、音楽がミュージックコンクレートや音響合成を駆使したノイズ的な電子音楽であることだ。ではなぜこのことに注目すべきか。
 近藤は主著『線の音楽』の中で繰り返し、分節化されていない音で構造を作ることの限界について語っている。
 最も単純な分節とは音階化のことである。
 「線の音楽」とは様々な構造が不完全に重なり合うことによって生じる、聴き手に開かれた音の迷宮であった。
 このことを考えると、音階化されていないノイズのような音はそもそも構造を作りだせないため、聴き手によって異なるゲシュタルトが描かれることはないに思える。
 しかし鈴木はこの問題を、音楽に「意味」の次元を導入することによって回避している。どういうことか。

 エドゥアルト・ハンスリックの『音楽美論』を持ち出すまでもなく、音楽はしばしば情動や風景を描写することに適さない媒体とされる。音楽外の何かを歌詞の助けなく模倣し、何らかの風景や情動を言語のように的確に伝達することは、非言語的であり非視覚的な音楽には極めて難しいといえるだろう。
 しかし、それでも私たちが音楽になんらかの意味を感じてしまうのも事実である。この曲は悲しい感じがする、とか、この曲は気分が明るくなるといった風に。無論、私が悲しいと感じた曲を別の者が聴けば澄んだ美しさを感じ取るかもしれないし、気分が明るくなると感じた曲をコミカルなものとして感じる者もいるだろう。だが、私たちが音楽に感じる情感が、共有可能なものではないとしても、何かを感じ取ってしまうということ自体は事実である。
 そして近藤=黒坂の作品が聴き手や観者がそれを自発的に享受することを肯定する、他者に開かれた作品だったことを思いだそう。そう、ここではその音楽という媒体のもつ曖昧さこそが逆説的に重要となってくるのだ。 

 そのことについて述べる前に、まず音階化されていない電子音楽を用いることによって、自然に満ちる非音階的で非楽音的な音を描写することが可能になるということを確認しておかなければならないだろう。実際、鈴木の音楽では雷の音らしきもの、雨の音らしきものや、土を踏む音らしきものなどが鳴る部分がある。
 しかし、ここで注目してほしいのは私が「らしきもの」という書き方をしたことである。彼は意図的にそれを曖昧にしている。
 例えば雨の音と土を踏む音はその境界を曖昧にされ、映像の雨らしき質感や土が踏まれていくような質感、あるいはその他のドローイングと時に一致したような錯覚を引き起こし、時に離反するような感覚を引き起こす。
 例えば雷の音は、抽象的な電子音や心理効果効果としての激しいノイズ、と境界があいまいにされる。ここでは音楽の、情感を伝えるということが曖昧な形でしかできない非意味的性質、を逆説的に利用することで、意味と非意味のあわい、風景と心情のあわいが創りだされているのである。

 そう、先ほど私は鈴木の音楽を劇版といったがこれは正確ではない。「マチェーリカ」においては音楽は映像に付属するものではなく、同じ権利を持ち共存するものである。
 そこでは映像と音における、「可塑性のゲシュタルト」がポリフォニーを形成し、「時間芸術」として形態と非形態、意味と非意味の間を行き来する「ポスト線の音楽」としての「ゆらめくかたち」となっているのである。

 

Ⅱ. 

 次に第2部の話に移ろう。先ほども述べたように、第2部では鈴木治行ピアノ曲3曲がピアニスト河合拓始によって演奏された。ちなみに演奏の前には1曲1曲について簡単な曲の紹介が鈴木本人によって行われたことを述べておこう。前述したパンフレットの裏面に記載された解説などとも合わせつつも1曲1曲について考えていこうと思う。

 例えば1曲目の≪同心円(2007)≫は、同じ素材が成長しながら徐々に立ちあらわれてくる形態であり、左手と右手は時間差を持ちつつも線対象のフォルムをしているという。
 またこの音楽は、ある音形が紡がれる過程である過去のある音と関係性を持つことによって、まるで糸を編むかのように時間の編み物が創られる……といったことを意図していると鈴木は語っていた。
 この「時間を編む」というような音楽の時間性を強調するようなレトリックや思考は近藤の音楽や著作を連想させるものである。前述したように大学生時に近藤のゼミに参加していた鈴木は、近藤の「線の音楽」のある側面を継承しつつ時にそれを発展させている作曲家といえる面が多々ある。
 時間差によって関係性をぼかすという手法も――元はスティーヴライヒのプロセスとしての音楽、あるいはルネサンスの時代からカノンなどにみられるものではあるが――近藤の音楽にもまた良く見られるものである。
 鈴木がその素材の立ち現れてくる過程の中に近藤的な時間の迷宮を創りだしていることは間違いないだろう。

 次に2曲目の≪木立(2011)≫であるが、これはほとんど同じ和音が微細な差異を創りだしていく曲である。ここでは微細な差異によって同一のものが曖昧に解体され、異化されていく時間を体験することとなる。微細な差異というものもまた「線の音楽」の重要なテーマであったことを思い出そう。

 3曲目の≪句読点Ⅷ(2012)≫は、スムーズに進んでいた音楽がある時点で全く異なるものに変わり、その切断線=句読点が立ち現れるという作品である。具体的には不協和なパルスが流れていたと思うと急に調性的なそれも不必要に甘いメロディが流れ出すといったことが起こる。
 この3曲目は一見すると近藤の音楽とは異質なものに感じられるかもしれない。しかし、近年の近藤の音楽や発言を考えたときこの3曲目こそもっとも近藤的なものの一面を強く継承しているといえるのだ。話をしばし近藤譲に移そう。

 2017年3月にピアニスト井上郷子による近藤作品のピアノリサイタルが行われた。そこで演奏された曲の内のひとつ《間奏曲 INterlude (2017)》に近藤自身が寄せたプログラムノートの一部を引用してみよう。

 井上郷子さんからの委嘱によって、今夜の演奏会のために、この一月に書き下ろされた作品。この作品は、基本的には、私のこれまでの作曲と同様に、一本の旋律線(或いは、一筋の時間の流れ)から成り立っている。だがその「線」は、広い音域への散開や、強弱の対比などによって、いわば、引き裂かれている。 どれほど一元的に形成されたものであっても、一度それが形のある全体として姿を現わせば、そこには、たがいに対比的に区別される諸部分が認識される。というのも、「形のある全体」には必ず内部構造があり、そしてそこでの構造とは、区分された諸部分間の相互関係性に外ならないからである。逆に言えば、内部に対比的な諸部分を含まないような全体といったものは無い。この《間奏曲》の基礎となっている「一本の旋律線」が諸種の対比によって引き裂かれているように見えるのは、最近の私が、そうした不可避的な構造の対称性をことさらに強く意識するようになったからだろう。(「井上郷子 ピアノリサイタル#26 近藤譲ピアノ作品集」 プログラムノート)

 例えば「Do」の音が3回続く、次に「Re」の音がくる。このとき、まず3回の「Do」の反復を聴き、次に「Do」を期待していた私たちは「Re」の音によって裏切られる。そして3つの「Do」とひとつの「Re」に分節される。この「Do」と「Re」の在り方の「間」が関係性である。つまり関係性には一つの音や音のグループが他の音やグループと区別されて認知され、それらが少しでも対比される必要があるのである。 近年近藤はこのグルーピングというものの前提に注目し、その性質をもって「線の音楽」を更新しているのである。 

 話を鈴木治行に戻そう。これらのことを考える時、鈴木の「句読点」という考えが非常に近藤的なもの――あるいは近藤自身による線の音楽のアップデートを先取りしたもの――であることがわかるだろう。音と音との間に時間的連なりを紡ぎだすには、音に差異を作り、一度分離することが必要であり、そこには必ず対比が必要となる。これは「線の音楽」に限らない音楽の形而上学的な真理である。「線の音楽」を思考し続けた結果として近藤が辿りついたこの前提を、鈴木もまた実践しているのである。

 この≪句読点Ⅷ≫の最後のシーンでは、セットしたタイマーが鳴り響くという「対比」によってピアノの演奏が断ち切られ、第2部は幕を下ろした。

 

 

Ⅲ.

 冒頭で述べたように第3部では黒坂圭太のライブドローイングと鈴木治行の即興演奏によるコラボレーションが繰り広げられた。

 黒坂はスケッチブックに線的描画によって、基本的には抽象的なかたちを描き続けるわけだが、スケッチブックをめくり別の頁になるたびにドローイングは微細な差異をふくみつつ少しずつ変化していく。まさに「マチェーリカ」で行われていたことがリアルタイムで行われていくわけだ。
 さらに面白いのは黒坂が絵を描くという行為自体もまた、徹頭徹尾アニメイトさせようとしていたということである。鉛筆がスケッチブックとそれを映すカメラの間をなにも描くことなくただただ駆け抜けるという手の動きが何度も繰り返され、その緩急でもって時間的持続が創りだされた冒頭の場面などはその典型といえるだろう。ここでは手の動きそのものが時間芸術を作り出すモチーフ的素材であり、その後にその手の動きによって描かれる線もまた、空間に浮かぶものというよりも時間性をもって刻み込まれたものであること、つまりあらゆるものがアニメーションという形で生成される時間の1素材であることが示されているかのようだ。実際、その手の動きは描画という行為になめらかに繋がり、画面を横切る時抽象的時間の――音楽的――1モチーフとして後に頁をめくる動きと繋がっていくわけである。

 鈴木の音楽は基本的には黒坂の「ドローイングの音」を事前にサンプリングした音素材を用いてそれを即興的に組み合わせたり、加工することによって創られていたと思われる。黒坂の実際のドローイングと時に重なり時に相反するタイミングで音楽は流れてゆき、「マチェーリカ」のような音楽と映像が垣根なく時間を生み出す記号となるポリフォニックな時間が創りだされていた。

 しかし音楽というならば、黒坂がライブ中に実際に出していた「音」にもまた注目を払わなければならないだろう。黒坂が激しく絵を書きつづっていく場面にてあえて音楽が寂とするシークエンスがある。一つの作品世界の記号的安定がメタフィクショナルに打ち砕かれ、その場に鳴っていたが注目されることのなかった「音」が現前するわけである。
 また非記号的展開という意味では黒坂が途中、同じ直線を何度も描くシーンにも注目すべきだろう。モチーフとしては同じ直線が繰り返されるわけであるが、黒坂の手の微妙なブレによって毎回、アナログな差異が作りだされるのだ。

 黒坂の線が記号的モチーフ的に創りだす音楽性――ここでいう音楽性とは抽象的時間構造全般のことに他ならない――、「黒坂が描く」ということが記号的モチーフ的に創りだす音楽性、鈴木による黒坂のドローイングの音によって創られる音楽性、そして黒坂による線の非記号的なアナログな差異、黒坂の非記号的な音自体、それらがポリフォニックにゆらめくのである。そこで創りだされるポリフォニーは「マチェーリカ」と同じく「可塑性のゲシュタルトによるポリフォニー」であり、近藤譲と同じく――あるいは彼の音楽をさらに先まで推し進め――抽象的でかつ曖昧さを意図的に含んだ、時間構造の複雑な迷宮を創りだしていたのである。

 

 近藤譲の教え子である鈴木治行だけでなく、黒坂圭太もまた「線の音楽」の実践者であったのだ。