灰街令 試作集

灰街令の試作集

幽霊的ポリフォニー――近藤譲試論

【世界について】
 1970年代の終りごろ、ニューヨークに10か月ほど滞在していた近藤譲ジョン・ケージとしばしば話をしたという。
 打ち捨てられ、もはや使われなくなった高架道路についてケージは言う。
「美しいでしょう!」
 目を細め語るケージ。その表情はケージが石などの自然を愛でる時と同じものだった。
 後に近藤はこう総括する。

彼が愛でる「自然」とは、いわば、人がその中で暮らす「世界」のことであり、そこには、自然の生成物(あるいは自然現象)も、人工のものも、共に含まれている (近藤譲『聴く人 homo audiens 音楽の解釈をめぐって』ARTES 2013 p16) 

 しかし、同書で近藤も述べるように、ケージは人工の日常を生きる我々がその「自然」をそのままに受け入れることを説き、それで良しとしたわけではなかった。
 《4分33秒》ですら4分33秒間という時間が切り取られ「作品」となっている。
 ケージは「世界」を「作品」に引き入れることによって逆説的に「自然」と「人工」の区別をなくしていこうとしたのである。

 

 

【他者について】
 音楽を、作曲者が聴き手へ何らかの「内容」を正確に伝えるコミュニケーションと考える時、その伝達の際に生じるあらゆる偶然性は取り除かれなければならないものとなる。
 音楽は「意味」を持たず、音楽の内容は「形式」――つまりその構造あるいはフォルム――であるとする形式主義者の視点に立ったとしても同じことである。
 近藤はケージの偶然性/不確定性の音楽をこのようなコミュニケーションのモデルとは無縁であると論じる。

こうした「偶然性」(不確定性)の音楽」では、その作曲者も聴き手も、どちらも同じ立場で、訪れてくる音響(そこでの表現の実質、すなわち、「音楽〔曲〕」)に出遭う。つまり、その「音楽〔曲〕」は、確かに人工物ではあるのだが、あたかも雷鳴や虹といった自然現象のような、人の(作曲者=聴き手の)外に存在する客体である。(『聴く人』p65-66)

 偶然性/不確定性の音楽は聴き手や演奏家だけでなく、ケージ自身にとっても他者の音楽なのであり、そこには閉じた作曲者の意図は存在しないのである。

 

 

近藤譲について】
 日本には近藤譲(1947-)という作曲家がいる。東京芸術大学の作曲科を卒業した後、コンテンポラリークラシック(いわゆる現代音楽)の作曲家として世界的に活動し、東京芸術大学エリザベト音楽大学お茶の水女子大学などで教鞭をふるい、ハーバード大学のレジデンスアーティストやドナウエッシンゲン音楽祭での講義の経験すらある彼は生粋のアカデミシャンといえるだろう。また、近藤はケージの著作の翻訳なども行っているが、ある時期以降の作品に偶然性は取り入れていない。
 しかし彼の音楽や著作に少しでも触れれば分かるように、彼は一般的な(ヨーロッパの作曲技法を巧みに使いこなし作品を「伝えようとする」)アカデミズムの作曲家たちとは少し異なっているように思える。どういうことか。

 1989年11月6日に東京大学表象文化論研究室の公開講演会として行われた公演で彼は自身の作曲法について以下のように語っている。

最初の音がとにかくどれかに決まると、それを繰り返し何度も聴く。聴いているうちに、二つ目の音を思いつくわけです。そこで、最初の音のあとに2つ目の音を書く。これはばからしいほどあたり前のことだと思われるかもしれません。ともかく、私は、二つ目の音を思いついたらこんどは一つ目と二つ目の音を聴いて三つ目の音を、三つ目の音を思いついたら一つ目、二つ目、三つ目を聴いて四つ目の音をというふうに、いつも必ず初めから聴いて、順番に一つ一つ音を前に足していくというやり方で作曲していきます。この作曲方法には、何の体系も何の規則もありません。ただ聴いて、思いついた通り音を並べていくわけです。しかし、その音の思いつきが、純粋に無前提の直感のみに頼ったものかというと、実は、そうではありません。例えば、最初の音のあとに二つ目の音を何か置いたとする。そうすると、その二つの音の間には、当然、何らかの相互関係が生じます。その関係性に着目するというのが、私の作曲の方法なのです。

 

 引用を続けよう。

私が関心を持っている音相互間の関係性というものは、特に目新しいことではなくて、むしろ非常に伝統的な種類のものです。それは、例えば旋律とかリズムとかあるいは調性とかいった、非常に伝統的な音楽の構造の諸要素を成り立たせているのが、そうした関係性にほかならないからです。(中略)三つの音をそれぞれABCと呼ぶとすれば、AとBによってできる関係が、BとCによってできる関係によって裏切られるように音を繋いでいくわけです。そしてさらに、四つ目の音Dを書く際には、ABCによってできている関係が、Dによって裏切られるように音を置いていく。そんな仕方です。つまり常に何らかの関係性が成立してはいるのだけれど、しかしいつもその関係性が曖昧なものでしかないという状態(小林康夫編『現代音楽のポリティクス』 書肆風の薔薇 1991 p158,160-161)

 この「曖昧さ」という言葉は重要である。近藤の注目する「関係性」は西洋音楽において極めて伝統的なものであるが、彼の音楽においてはそれは「曖昧」にしか現れない。
 彼は主著『線の音楽』の中で同じく「曖昧」について言及しているのであるが、そこに記されている、彼の作品《オリエント・オリエンテーション(1973)》の作曲法によれば、15の音を選び出した後に乱数表を使ってそれをランダムに並べ、その後に作曲=操作を始めたという。この偏りのある(選ばれた音が15音であることに注目)ランダム性は核音が現れては消え、また違った核音が現れては消える感覚をもたらす。近藤はこれにさらに、同じ旋律を2声間でずらしたり、2声間に微細な差異を導入することによって様々なフレージング(グルーピング)の可能性を創りだしている。
 そして曖昧な核音と微細な差異による音楽によって聴きとられる音の連なりや調性感は聴く度ごとに異なっているという。

 

 

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  近藤譲『線の音楽』(ARTES  2014 p86-87)より≪オリエント・オリエンテーション≫の部分的な楽譜。

 

 

  図Eが元の音列であり、図Fがランダムに選びだされた音列の一例。図A~Dはその実際の運用である。
 先に述べたように音を2声間でずらしたり(図B)、微細な差異が導入されたり(図C)、その二つが組み合わされたり(図D)といった微細な操作が行われている。

 

 ではこのような音楽的な関係性(構造)が現れては消える「曖昧さ」がもたらすものについてより具体的に理解するために、彼の初期作品《歩く WALK(1976)》の冒頭の簡単なアナリーゼを試みてみようと思う。

  

f:id:ReiHaimachi:20171227132238j:plain 近藤譲 《歩く Walk》 peters 1976 p1)を元に作成

 

 

 簡素な楽譜であるが故に各音の関係性がはっきりと見て取れるだろう。2つの声部があるがそれは実質的にひとつの旋律から導き出されているといえる。
 まず冒頭は「Do」の音のユニゾンによる反復から始まる。これは4小節で1セットと考えてよいだろう。楽譜上には赤の括弧でそれを示している。連続する「Do」は4小節目で途切れ、そこでグルーピングも終了する。この途切れは前の引用で近藤が述べていた、裏切り(異化)の最も単純な形に他ならない。次にまた4小節が同じように繰り返される。ここでまた高次の(4小節を1単位とした)反復が生じる。しかし、次の小節でそれは裏切られる。水色の括弧で示した部分に注目してほしい。「Do」が2回続いた後の10小節目では音が途切れてしまうのである。これを契機として「Do」の反復は崩れ始める。
 13小節目から始まる旋律に書き込んだ緑(フルート)と紫(ピアノ)の四角い枠を見てほしい。ここは疑似カノンとなっておりそのズレは2重のものである。ひとつにまず、カノンとしてのズレ。カノンにおいては一つの旋律が描いた軌跡の記憶をそれを模倣する旋律が喚起する……と同時に初めの旋律は次の軌跡を描き始める。ここにはズレという関係性を聴く西洋に伝統的な聴取の快楽が存在している。しかし《Walk》においてはそれだけでなくもうひとつ、フルートの声部に挿入された16部休符によるズレが存在する。このズレにより軌跡の記憶は参照先をかわされ、聴き手はより主体的にカノンを聴取しようとすることによってのみ、それをカノンとして聴くことができる。このように曖昧にされたグルーピングは私たちが身に付けてきた音楽の「聴き方」を焙り出す
 紫の枠の終わりには「Re」→「Do#」の目立つ跳躍が見られる。この跳躍は一種の疑似モチーフとして2小節先の「Re」→「Si」やその次の小節の「Re」→「La」につながるものだが、共通点は跳躍というだけであると同時に、それが現れる間隔に規則性がみられないため、これはあくまでモチーフを聴こうとする私の耳が聴いた繋がりに過ぎず、他の耳がどう聴くかはわからない。音楽は意図的に「曖昧」である。また、ここの黒い丸で囲んだ小節は「Fa」、「A」、「Do」の各音がありヘ長調のように聴こえる。そのように聴こうとすれば冒頭の「Do」の連打はあたかも「属音連打」の亜種のようにも聴こえるし、先のカノンに現れた「Si♭」もヘ長調に属する音だったことがわかる。しかし、この聴取もまた絶対的なものではない。紫の枠に現れた「Do#」はヘ長調の音階に含まれる音ではないからだ。ヘ長調としてここまでの音楽を聴こうとする者はこの「Do#」をその次の「Do」へ繋ぐオクターヴ違いの倚音として聴くだろう。無論、それもまた聴き方の一つである。
 19小節目から再びカノンが始まるのだが、それは下段にかかれた(だいだい色で囲んだ)「Stop!」という指示によって途中で、未完のまま断ち切られてしまう。これもまた「曖昧」さを創りだす。
 この後に始まるピアノの「Si♭」→「Do」→「Re」……は先のカノンの途中で現れた音形と類似のものである。ここでは疑似的にモチーフが回帰している。その後それに重なる形で「F」→「La」→「Do」が現れる。ピアノ左手の8分音符のパルス(だいだい色の丸で囲われている)は後に再び現れる疑似モチーフの一つである。楽譜における囲みや矢印を見れば分かるように、この単純に見える数小節には実はさまざまな系列の関係性が流れ込んでいる。ここで何を聴くかは聴き手によって異なるし、私が発見していない何かがまだあるかもしれない。

 装飾のない純粋なグルーピング。しかし曖昧なグルーピング。
 その曖昧さを聴いていくことは私たちに集中的聴取を要求する。そしてまた、その関係性が曖昧であるが故に、聴き手一人一人の聴取ごとの一回一回の結果が違った音の関係として現れる可能性を鮮烈に内包している
 そして私たちがそれぞれの音を聴きだす時、そこに働くのは主体性であると同時に、聴いてきた音楽によって自らに内面化された「聴き方の型」でもある。
 この時、自己の聴取の中に自己の歴史が、また、あの簡素な一本の旋律の中に無数の音楽とそれを作った無数の他者の声が、時には数千年の時を超えて響いてくるのである。

 前述した公演で彼は作曲に「体系」や「規則」を持ち込まず、ただ「聴くこと」を重視していた。近藤がその内面において聴いた他者の声を、私たちは聴く。しかし、その時に聴く他者の声は別々ものなのである。近藤は自身の著書と同名のCD『線の音楽』の自作解説でこう述べている。

 これは拒絶の音楽を探し求める旅のひとつの道程である。拒絶の音楽は、音楽の拒否を意味するのではない。それは音楽がもつ一つの態度――作家が音と音楽とに対してとる特定の態度のもとで作られた音楽が、作家自身、奏者、そして聴衆に対して一様に示す作家の態度――が人に対して示す拒絶、音楽への人の参加の拒否である。この度は、音楽を人間中心主義者の手から切り離すためのものなのだ。(近藤譲『線の音楽』ライナーノーツ ALM RECORDS 2014

 また彼の「体系」や「規則」に対する批判的な態度はケージの「世界」そのものを聴くことという意識にもつながるものである。

 例えば伝統的な旋律のような、非常に明確にまとまって聴こえるようなものを書くと、聴き手は、その旋律を捉えたとき、もう音そのものは聴かなくなるのです。つまり、聴くのは旋律のほうであって、それを構成
する一個一個の音には、もう誰も関心がなくなるわけです。(『現代音楽のポリティクス』 p162-163)

 近藤の音楽において一音一音は曖昧な関係性のネットワークによって逆説的にその固有性を再発見され、一つの音が他の音に積極的に働きかけるアクターとなる。そして、描かれた線は他者の声を呼び寄せ、他者として我々――近藤自身にさえも――現前するのである。

 

 

【世界の内在性について】
 近藤譲は一見伝統的な時間芸術としての作曲を行ないながら、前もって用意された作曲者の意図のようなものをそこから消し去り、他者の声を聴き、他者の声を私たちに聴かせる。

 しかしケージと違って、それは「内在的世界」において行われるのである。
 そして近藤の音楽で先端化されている他者性は、その他のすべての音楽に立ち会う際にも「聴き方」を主体的に意識することによって立ち現れることとなる。

 

 

【時間とポリフォニー
 近藤の音楽は時間的である。音楽自体が時間芸術である以上これは当たり前のことを言っているように思えるかもしれない。しかし現代音楽の歴史をひとたび眺めれば話は変わってくる。例えばブーレーズのような総音列音楽を聴くとき、それが楽譜上厳格な時間的秩序を持ったものであるにもかかわらず、私たちはその秩序を秩序として知覚することができるとは限らない。その秩序がしばしば聴覚性を超え出ているが故に時にそれはその瞬間の音響――時間的構造=グルーピングなき音の集まりの質感――として響くだろう。近藤は言っている。

 

ぼくは、当時のブーレーズの衝撃というのを、非常に具体的に言えると思うんです。それは非組織的組織あるいは組織的非組織というものの衝撃ですね。彼は徹底的に組織的に音楽を作った。だけど聴こえる結果はほとんど非組織だった。(中略)つまり、これは組織の極限だと言ったわけです。組織の極限がカオスになるということの衝撃だと思うな。(『現代音楽のポリティックス』 p27)

 

 このような、構造の探求を行なうことの限界を目の当たりにした時、音を音響という全体性として扱う方向に先端化していったものがクセナキスの統計的書法であり、クラスター書法の再評価に他ならない。
 このような空間の秩序ではなく、彼は音楽に音の一つ一つを順に束ねていくような時間を音楽に、別のやり方でもう一度呼び起こしたのだ。
 関係を聴くときにそこに流れる時間について、先に引用した近藤の公演にて、司会を務めた小林康夫は言っている。

 

これはぼくのスペキュレーションなんですが、一番最初の音を置いて、その次に何の音が来るかと考える――そうやって作っていく方法論ということは、よくわかります。そこで、もし裏切りというなら、ひょっとしてそこで作曲家としての近藤さんが求めているのは、最初の音の前の音だというように考えてみたらいかがなんでしょうか。(中略)一方は時間を進めるけれども、進めておきながら、なおかつ裏切る、つまり逆行する。ここから先はまったくスペキュレーションなんですが、その逆行というのが最初の音の前にあるべき、そして絶対に耳には聞こえない、音を求めて行くのではないか――、非常にメタフィジックですが。(『現代音楽のポリティックス』  p189)

 

 例えば彼の作品《視覚リズム法(1975)》では5声の声部による音楽が6度繰り返されるのであるが1ループごとに1声部ごとに旋律が微細に変化していき、最後には全ての声部が変化する。1つ1つの声部は断片的なため、それらが繋がれてひとつの旋律線をなしているのではあるが、その旋律線の異化がループごとに聴きとれるわけである。常に徹底して過去の出来事を参照とする音楽の在り方は、まさに小林のいうところの逆行する時間といえる。
 しかし、ここで小林の言葉に付け足すことがあるとするならば、遡行する時間と流れる時間という線に加えられるべき、内在的世界に満ちる様々な「過去に流れていた音楽という時間」という前述した線の存在だろう。

 近藤の音楽においては、たったひとつの、曖昧で、今にも消え入りそうな旋律の中に無数の透明な旋律が響いている。
 私はこれを〈幽霊的ポリフォニー〉と呼んでいる。

 

 

 最後に近藤譲ステートメントを引用してこの文章を締めくくろうと思う。私たちの世界が異なり、変容を続ける以上、いつの日か世界が終わるその日まで、その声は響き続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。

作曲とは「聴くこと」であり、「聴くこと」を通して、自己を外へ、他者へと開く行為なのだ。(『聴く人』 p78)