灰街令 試作集

灰街令の試作集

ヨハネの犬

 上の向こうには、光を裏側にたっぷりとふくんで透かし見せながらも、決してそれらを塊として射し入れることのない、灰色のかさなりの群れがあった。
 前の向こうには、上下前後に静かに揺れ、上の向こうから漏れ出た光の雫をぴかぴかとこちらへと反射させ続ける、みどりがかった柔らかな透明があった。
 こちら側には、真っ白のさらさらとした無数の小粒があった。
 今あげたものたちが形作る薄明るい広がりの他には、そいつがいるだけだった。
 このことは、そいつが長い時間かけて這いずりまわって確かめたことだった。もう少し時間をかけて調べたらなにか見つかるかもしれないという思いは、そいつにはなかった。どれくらい這いずりまわっていたかはわからないが、そいつは幾分のあいだ這いずりまわって、ここにあるすべてのものについて納得したのだった。

 そいつは思うということをした最初の時からここにいたし、それ以外の思い出はひとつもなかった。けれど、ここという考えはあった。つまりここではないどこか、ここにあるものではないなにかという考えを直観していたということになる。

 そいつはいつも、目の前の静かに揺れるみどりがかった透明と、こちら側の真っ白なさらさらの境目のあたりに寝そべっていた。そいつは動かなかった。這いずり回るために使ったよっつの突起のうちの、前にあるふたつで透明に触れながら、たまに顔を傾けては音を聞いていた。そこからは自分がふと唸る時と似た音や、ぜんぜん違った音が聞こえた。だからそいつは、自らと似た誰かや、自らと全く異なった誰かがどこかにいることを知っていた。誰かはなにかとは違うものだということも直観していた。柔らかな透明はどこまでも見渡すことができて、そのどこにも誰かはいなかったから、そうした音は、ここではなくどこかで鳴らされてここまでやってきたのだと思ったのだった。

 そいつは音を聞くだけでなく、たまに自らも音を鳴らした。どこかに音が届くかもしれないという思いもあったが、届いた誰かの音に自らの音が混ざり合うことを好いていた。それはそいつにとって楽しいことだった。そいつは常にどこかの誰かに触れている気持ちだった。

 そいつがその気になればここは真っ暗になったし、その気になれば再び薄明るくなった。しばらく透明と戯れたあと、ここを真っ暗にして休み、またしばらくすると再び薄明るくして透明と戯れることを繰り返した。そしていつも、ここを真っ暗にしている間に、赤や紫の色鮮やかでぶよぶよとした塊がかたわらに置かれているのだった。そいつはそれが現れる瞬間を見つけてやろうと、真っ暗と薄明るいを何度も素早く交代させたこともあったが、そうした試みもやがて疲れてやめてしまった。ぶよぶよとした塊は、そいつの内側に入れるべきものであることが、初めからそいつにはわかっていた。塊を内側に入れるたびにそいつは元気になった。このことはそいつにとって嬉しいことだった。

 こうした長い繰り返しの中で、そいつは、透明の揺れから同じ音が何度も聞こえていることに気がついていた。そいつはすべての音が好きだったが、その音を特に愛していた。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 そいつはその意味を知らなかったが、首を傾げた後、それに応えるようにただ唸った。

 暗闇と薄明かりが幾度となく繰り返された。
 そいつはもう見ることができなくなっていたが、薄明かりを感じていた。だからそいつには、もう暗闇はなかった。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 そいつはその意味を知らなかったが、首を傾げた後、それに応えるように、ただ唸った。

 薄明かりがどこまでも続いていた。
 そいつはもう聴くことができなくなっていたが、無数の音が鳴っていることがわかっていた。だからそいつには、もう沈黙はなかった。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 そいつはその意味を知らなかったが、首を傾げた後、それに応えるようにただ唸った。
 無数の音が過ぎ去ることなく現れて、また現れた。

 そいつはもう感じることができなくなっていたが、二つの突起に触れる透明が消えないことを知っていたし、鮮やかなぶよぶよの塊が現れることも体内に入っていくことも知っていた。だからそいつには、もう疲れはなかった。

 こことどこかの区別はもうなかった。ここはすでにどこかになっていた。

――しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 すべてのなにか、すべての誰かが在り、続いていた。ないものはなく、終わるものはなかった。

 どこかで誰かが蘇る音が鳴った。

ジョルジュ・アペルギス詩論

■ 

 まず、「音楽言語」についての話をしよう。そもそも音楽言語とはなんなのだろうか。
 例えば音楽を「感情の言語」と見なす思想は18世紀前半に多く見られるものだ。*1この考え方によれば音楽はあたかも自然言語のように文法――例えば音楽における「和声」はまさに文法的な連接体系を形作っている――を持ち、感情を描出するものであるとされる。あるいはロマン主義の時代に入ると音楽は超越へと至るための内面の表現であるとされるが、それは個人化された「語り」とでも言うべきものである。
 こういった主張に対して、表現内容ではなく「形式」(旋律線や和声づけなどの音楽的構造のことを指す)を重視する形式主義が現れる。
 例えばエドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)はその中心人物である。彼は『音楽美論』の中で、曲とぴったりと合った滑稽な替え歌や、なにかを描写した音楽に対して聴者が標題抜きでその描写対称、つまり作者の意図を当てることの不可能性を指摘し、音楽の本質を形式の美に求めた。
 では、ハンスリックが述べるように、音楽は言語のように何かを指し示す記号ではなく、そこに作られているものは形式性だけであり、音楽自体が特定の意味を(偶然に基づくことなく)持つことはない、と言いきってしまって良いのだろうか。
 ここで東条敏・平田敬二『音楽・数学・言語』 から数センテンス引用してみよう。

例えば,ドレミファドレミファ・・・というフレーズ(音列)があるとする.このようなドレミファのくり返しを聴けば,ゲシュタルトによりドレミファという単位が認知され,それがまた次に現れるのではないかと期待するだろう.聴者は心の中で,今聴いている音列が今まで聴いた音列のどこかに何か関連(同型,類似など)していないだろうかと記憶の中を常に探索しており,聴者が関連を見出した時に音列どうしの参照関係が認識される.つまり,音楽における参照は聴者の記憶と予測から生じ,未来に生じるフレーズの推測および過去に聴いたフレーズの認識は,それぞれ今聴いているフレーズから未来のフレーズへの参照および過去のフレーズへの参照と見なせる.この時,[パースの記号論と照らし合わせるならば]今聴いているフレーズ(ゲシュタルトによって分節されたドレミファという音列)が記号(表現)に対応し,未来に生じるフレーズの推測および過去に聴いたフレーズが表現の対象や結果に対応し,聴者が観察者に対応する.この参照関係が旋律の意味づけの正体である.(東条敏・平田敬二『音楽・数学・言語』 p10 近代科学社 ([]内は引用者注))

 重要なのは、ハンスリックが重視するような形式的に説明可能な客観的な構造を、ゲシュタルト心理学を介して人間の認知と結びつけることによって「意味」と捉えていることである。音楽自体に内在する構造を聴者が認知し、形式=記号の連接が別の形式を内在的に参照することによって「意味」が作り出されるというわけなのである。このような内在的関係、つまり音のゲシュタルトによる推測とその当たり外れが情動を引き起こし、音楽を意味づけることを最初に指摘したのはLeonard B.Meyer(1918-2007)である。彼はこの内在的な「情動」により音楽の「意味」が生じると考えた。*2
 つまり音楽とは、音楽の形式がその形式自体によって作り出す意味の次元が存在する言語である。ここには自然言語のような内容と形式のような対立はなく、それゆえにあのサピア=ウォーフの――いまや自然言語においては時効となった――仮説がなりたつのではないだろうか。なぜならば、サピア=ウォーフの仮説を音楽言語に導入した時に導き出される命題は、「形式どうしの内在的参照関係は形式に縛られる」という半ばトートロジー的なものであるからだ。
 ちなみに西洋音楽には作曲家の個性を指し示すタームとして「書式」(エクリチュール)という言葉があることを示しておこう。

 


 さて、音楽が一つの独立した言語性を持つのであれば、そこに別の言語性が介入する「歌曲」とはなんなのだろうか。
 歴史の始めのころ、音楽は「自然言語的なもの」に従属していた。例えば教会音楽においてある旋律がすでに決められた何らかの象徴的意味合いを持つといったものであったり、例えば古代ギリシアの音楽が韻文のリズムに基づくものであったりという具合で、音楽は自然言語に付随するものにすぎなかったのである。
 その後、言語に対する音楽の自律性は次第に高まっていくのだが、例えばロマン派の時代、シューベルトシューマンに至っては音楽は激しく展開し、そこに言語が付随されることによって新しい「個人的な」感情表現が追求された。あるいは現代音楽の始祖ともいえる新ウィーン学派において、音楽はその形式的自律性を12音技法という形で極度に高めることになるのだが、その難解さを補うために歌曲が多く作られた、つまり歌詞という意味の次元が、自律した音楽に付随する形で導入されることになったことなども重要だろう。
 つまり西洋音楽の歴史として、「歌詞優位から音楽構造優位へ」という流れがあるのである。
 では、より現代的な「現代音楽」では言語に対してどのようなアプローチがなされているのだろうか。

 ここで取り上げたいのはジョルジュ・アペルギスという作曲家だ。
 彼は1945年にギリシャで生まれフランスで活躍している音楽家である。彼はしばしば役者との共同作業によって作品を作り上げるのであるが、その活動の中でも特に、言語を用いた作品やシアター型の作品で知られている。ここでは彼の代表作『Récitations』 (1977-1978) について考えてみようと思う。『Récitations』 は14の部分からできており、その全てにおいて音楽言語と自然言語の関係性に注目した実験が行われている。

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 (Georges Aperghis 『 Récitations』 Selabertより )

 

 上に載せたものは「Récitations」の1曲目の楽譜部分引用に筆者が書き込みをしたものである。楽譜の左上には「Récitations」の1曲目で用いられるセリー(音列)が書かれている。各音は音高を表すだけでなくその音高に固定された仏語の単語も表している。
 曲中では、セリーを元としてそのセリーの断片の挿入/配列/反復が行われており、フレーズがランダム再生されるような効果を引き起こす。ちなみに四角で囲ってあるものがひとつなぎの断片である。固定された音列のブロックが、反復や分解をされていることがわかるだろう――例えば最初の5つのブロックの音列を確認してみてほしい――。単語はあらかじめ非文法的にセリー化されており、さらにそれが切断、再配列、反復されることによって非構文的なイメージの連鎖が撹乱される。音楽言語と自然言語ではその構文性は異なっている。ここで起きるのは音楽的構造により自然言語にもたらされる解体の緊張感だ。アペルギスは自身の音楽についてこのように言っている。

この音楽における音響的な出来事の進む速さは私たちの脳が処理できるものよりも速い。まるで言語、単語、音節が脳の論理的機能と異なる階層で自分の人生を生きているかのようだ。
(Georges Aperghis・Donatienne Michel-Dansac『14 Récitations』 collegno 2006 プログラムノート p24 訳に関してはSteven Lingbergによる英訳を筆者が訳している。)

 アペルギスの音楽における緊張感は自然言語の構文と音楽的構造の齟齬によるものだけではない。例えば「Récitations」14番では一息のもと、「heart heart luth heart luth cor luth」のような言葉が囁かれ変形されていく。

 

f:id:ReiHaimachi:20180206005043j:plain(同上)

 

 おそらく各単語はその意味ではなく音韻で選ばれたのだろう。このような言語の音声性への注目は6番における音節によるセリーの作成や13番における打楽器の模倣などにも見受けられる。そして、14番で重要なのは歌手は息切れと戦わなくてはならないということだ。楽譜の指示ではBPMは120から40へとリタルダントしていくわけだが、――アペルギスの音楽ではよく起こることであるが――演奏上の制約上それが滑らかに達成されることは難しいだろう。アペルギスは「Récitations」14番について以下のように述べている。

この指示は曲の終盤における息切れを自然に導く。この息切れは私たち、つまり観客にこの女性におこった重要な、おそらく悲劇的な出来事を考えさせるが、実際には単に技術的な要求の結果だ。(同上p23)

 

 アペルギスの声を用いた音楽では、自然言語の構文や音声、そして音楽の構造的言語性という系列が、相互に破壊しあう程に中心をめぐって争い合いながらも、結果としてその間に生じる〈亀裂〉こそが動的時間を形成している。それはある種のセリー音楽の新たなる表現の形態ともいえるだろう。
 それは構文が破壊されたものでありながら、時にまるでオペラのような悲劇的な物語性すら我々に与えるのである。

 ここではあえて、それを20世紀の歌曲と呼びたいと思う。

 

*1:ヨハン・マッテゾン、シャルル・バトゥー、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ、ヨハン・ニコラウス・フォルケル、ヨハン・ゲオルク・ズルツァー、ヨハンリヒ・クリストフ・コッホなどの著作に見うけられる。(マーク・エヴァン・ボンズ『聴くことの革命』(近藤譲 井上登喜子訳 )ARTES 2015 p48を参照)

*2:Leonard B.Meyer『Emotion and Meaning in Music』(University of Chicago Press, 1956)
 ちなみに。この予測とその充足/裏切りはEugene Narmour(1939-)によって「暗意-実現モデル」という情報科学モデルに応用されている。暗意-実現モデルでは音楽の諸要素(メロディ、リズム、ハーモニーなど)のゲシュタルトをそれぞれ最小のパターンに分類し、その連なりを分析する。また、このモデルの利点はその分析が人間の知覚に即していることがJames C.Carlsen(1927-)などの実験によって明らかにされている点である。(暗意-実現モデルについては前掲の『音楽・数学・言語』を参照。また、このモデルを用いて聴者の文化的背景を考慮しつつ充足/裏切りのパーセンテージを実証的に示す可能性としては、矢澤櫻子・寺澤洋子・平田圭二・東条敏・浜中雅俊「暗意実現モデルにおける 連鎖構造を用いたメロディ構造分析」(http://gttm.jp/hamanaka/wp-content/uploads/2015/12/MUS94SLP90-341.pdf)などが参考になるだろう。その他、音楽の言語性に関わる理論としては、言語学者チョムスキーの「生成文法」と音楽学者シェンカーの「シェンカー分析」を元に発展したGenerative Theory of Tonal Music(通称GTTM)がある。

『ゆらめくかたち』と「線の音楽」 ――黒坂圭太の音楽性について

 本論では、2017年12月23日に小金井の現代座ホールにて行なわれたイベント『ゆらめくかたち 不定形のヴィジョン 黒坂圭太X鈴木治行』について論じようと思う。
 私がイベントという言葉を使ったことにはわけがあり、それは、『ゆらめくかたち』が、上映会/演奏会/ライブという形式が混在した企画となっていたからである。
 本企画は、第1部で黒坂圭太の映画(劇版は鈴木が担当している)「マチェーリカ」が上映され、第2部は鈴木治行ピアノ曲3曲のピアニスト河合拓始による演奏、最後の第3部では黒坂がライブドローイング、鈴木が即興演奏を行なうという構成となっていた。
 これよりその一つ一つについて考えていこうと思う。

 

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 『ゆらめくかたち』のパンフレット。各部ごとの演目が記載されている。          (https://www.facebook.com/events/1535425143232185/より) 

 

 

Ⅰ. 
 まず黒坂圭太による「マチェーリカ(2016)」の上映であるがこれを観ている時、私にはある音楽性が、たしかにどこかで聴いたことのある音楽性が感じられた。

 「マチェーリカ」では終始抽象的な映像――黒坂が鉛筆でドローイングした様々なテクスチャー――が次々にオーバーラップしていき、すこしずつその質感を変えていく。私にはそれが、時に風景のように、時に人や動物のように、時に炎や水のように観えたのだが、そのかたちはあまりに意図的に曖昧かつ抽象的であり、おそらく私の――というよりも人間の脳の――曖昧な形態にもなにかしらのゲシュタルトを見出してしまう認知機能が作りだした幻影にすぎないのだろう。これは心霊写真が生み出される原理と同じものだ。
 あるいはあたかもロールシャッハテストの如く、私があるドローイングになにかのゲシュタルトを見出している時にきっと他の観客は全く別のゲシュタルトを見出していたのだろうと思う。
 これは画面のどこに焦点を合わせて観ていたかによっても変わってくる。
 ある時風景に見えたものが、次の瞬間に風の動きのように観え、そうしているうちにまた、ただの混沌的質感に戻るといった知覚のゆらめき。このゆらめきは、曖昧なかたちのドローイングとその絶えざる変化、そしてそれが画面上のあちこちで単一の焦点を決定することなく行なわれるということによって引き起こされていたのである。

 先程も述べたように私はこれを観ながらある音楽を思い浮かべていた……というよりもその音楽を聴くときに受け取る感覚、脳に引き起こされる現象を感じていたといった方がよいかもしれない。
 それは、「マチェーリカ」の音楽を担当した鈴木治行の学生時の師でもある、近藤譲(1947-)の音楽である。
 近藤は自身の音楽を「線の音楽」と呼んでいる。近藤の音楽について私は以前に文章を書いているのだが、

reihaimachi.hatenablog.com

ここでは要点を箇条書きにして説明しておこうと思う。

 

1.近藤の音楽では差異と反復はどちらも微細にそして曖昧に用いられており、様々な音楽的構造が現れてはすぐに消えてしまう。私たちはその構造を曖昧にしか認知することができず、また一つの音楽的形態に様々な(不完全な)構造性が生じている。

2.聴き手はその音の迷宮の中から音の連なり――ゲシュタルト――としての線的時間を主体的に紡ぎ出していく。

3.そこで紡がれる旅としての音楽は聴き手それぞれによって異なっている。

 

 これはまさに黒坂の映像と同じ仕組みといえるだろう。そこでは混沌とした迷宮の中に他者へと開かれた複数の秩序が可塑的に内在しているのである。

 では「マチェーリカ」における鈴木の劇版音楽はどのようになっているのだろうか。
 まず注目すべきは、音楽がミュージックコンクレートや音響合成を駆使したノイズ的な電子音楽であることだ。ではなぜこのことに注目すべきか。
 近藤は主著『線の音楽』の中で繰り返し、分節化されていない音で構造を作ることの限界について語っている。
 最も単純な分節とは音階化のことである。
 「線の音楽」とは様々な構造が不完全に重なり合うことによって生じる、聴き手に開かれた音の迷宮であった。
 このことを考えると、音階化されていないノイズのような音はそもそも構造を作りだせないため、聴き手によって異なるゲシュタルトが描かれることはないに思える。
 しかし鈴木はこの問題を、音楽に「意味」の次元を導入することによって回避している。どういうことか。

 エドゥアルト・ハンスリックの『音楽美論』を持ち出すまでもなく、音楽はしばしば情動や風景を描写することに適さない媒体とされる。音楽外の何かを歌詞の助けなく模倣し、何らかの風景や情動を言語のように的確に伝達することは、非言語的であり非視覚的な音楽には極めて難しいといえるだろう。
 しかし、それでも私たちが音楽になんらかの意味を感じてしまうのも事実である。この曲は悲しい感じがする、とか、この曲は気分が明るくなるといった風に。無論、私が悲しいと感じた曲を別の者が聴けば澄んだ美しさを感じ取るかもしれないし、気分が明るくなると感じた曲をコミカルなものとして感じる者もいるだろう。だが、私たちが音楽に感じる情感が、共有可能なものではないとしても、何かを感じ取ってしまうということ自体は事実である。
 そして近藤=黒坂の作品が聴き手や観者がそれを自発的に享受することを肯定する、他者に開かれた作品だったことを思いだそう。そう、ここではその音楽という媒体のもつ曖昧さこそが逆説的に重要となってくるのだ。 

 そのことについて述べる前に、まず音階化されていない電子音楽を用いることによって、自然に満ちる非音階的で非楽音的な音を描写することが可能になるということを確認しておかなければならないだろう。実際、鈴木の音楽では雷の音らしきもの、雨の音らしきものや、土を踏む音らしきものなどが鳴る部分がある。
 しかし、ここで注目してほしいのは私が「らしきもの」という書き方をしたことである。彼は意図的にそれを曖昧にしている。
 例えば雨の音と土を踏む音はその境界を曖昧にされ、映像の雨らしき質感や土が踏まれていくような質感、あるいはその他のドローイングと時に一致したような錯覚を引き起こし、時に離反するような感覚を引き起こす。
 例えば雷の音は、抽象的な電子音や心理効果効果としての激しいノイズ、と境界があいまいにされる。ここでは音楽の、情感を伝えるということが曖昧な形でしかできない非意味的性質、を逆説的に利用することで、意味と非意味のあわい、風景と心情のあわいが創りだされているのである。

 そう、先ほど私は鈴木の音楽を劇版といったがこれは正確ではない。「マチェーリカ」においては音楽は映像に付属するものではなく、同じ権利を持ち共存するものである。
 そこでは映像と音における、「可塑性のゲシュタルト」がポリフォニーを形成し、「時間芸術」として形態と非形態、意味と非意味の間を行き来する「ポスト線の音楽」としての「ゆらめくかたち」となっているのである。

 

Ⅱ. 

 次に第2部の話に移ろう。先ほども述べたように、第2部では鈴木治行ピアノ曲3曲がピアニスト河合拓始によって演奏された。ちなみに演奏の前には1曲1曲について簡単な曲の紹介が鈴木本人によって行われたことを述べておこう。前述したパンフレットの裏面に記載された解説などとも合わせつつも1曲1曲について考えていこうと思う。

 例えば1曲目の≪同心円(2007)≫は、同じ素材が成長しながら徐々に立ちあらわれてくる形態であり、左手と右手は時間差を持ちつつも線対象のフォルムをしているという。
 またこの音楽は、ある音形が紡がれる過程である過去のある音と関係性を持つことによって、まるで糸を編むかのように時間の編み物が創られる……といったことを意図していると鈴木は語っていた。
 この「時間を編む」というような音楽の時間性を強調するようなレトリックや思考は近藤の音楽や著作を連想させるものである。前述したように大学生時に近藤のゼミに参加していた鈴木は、近藤の「線の音楽」のある側面を継承しつつ時にそれを発展させている作曲家といえる面が多々ある。
 時間差によって関係性をぼかすという手法も――元はスティーライヒのプロセスとしての音楽、あるいはルネサンスの時代からカノンなどにみられるものではあるが――近藤の音楽にもまた良く見られるものである。
 鈴木がその素材の立ち現れてくる過程の中に近藤的な時間の迷宮を創りだしていることは間違いないだろう。

 次に2曲目の≪木立(2011)≫であるが、これはほとんど同じ和音が微細な差異を創りだしていく曲である。ここでは微細な差異によって同一のものが曖昧に解体され、異化されていく時間を体験することとなる。微細な差異というものもまた「線の音楽」の重要なテーマであったことを思い出そう。

 3曲目の≪句読点Ⅷ(2012)≫は、スムーズに進んでいた音楽がある時点で全く異なるものに変わり、その切断線=句読点が立ち現れるという作品である。具体的には不協和なパルスが流れていたと思うと急に調性的なそれも不必要に甘いメロディが流れ出すといったことが起こる。
 この3曲目は一見すると近藤の音楽とは異質なものに感じられるかもしれない。しかし、近年の近藤の音楽や発言を考えたときこの3曲目こそもっとも近藤的なものの一面を強く継承しているといえるのだ。話をしばし近藤譲に移そう。

 2017年3月にピアニスト井上郷子による近藤作品のピアノリサイタルが行われた。そこで演奏された曲の内のひとつ《間奏曲 INterlude (2017)》に近藤自身が寄せたプログラムノートの一部を引用してみよう。

 井上郷子さんからの委嘱によって、今夜の演奏会のために、この一月に書き下ろされた作品。この作品は、基本的には、私のこれまでの作曲と同様に、一本の旋律線(或いは、一筋の時間の流れ)から成り立っている。だがその「線」は、広い音域への散開や、強弱の対比などによって、いわば、引き裂かれている。 どれほど一元的に形成されたものであっても、一度それが形のある全体として姿を現わせば、そこには、たがいに対比的に区別される諸部分が認識される。というのも、「形のある全体」には必ず内部構造があり、そしてそこでの構造とは、区分された諸部分間の相互関係性に外ならないからである。逆に言えば、内部に対比的な諸部分を含まないような全体といったものは無い。この《間奏曲》の基礎となっている「一本の旋律線」が諸種の対比によって引き裂かれているように見えるのは、最近の私が、そうした不可避的な構造の対称性をことさらに強く意識するようになったからだろう。(「井上郷子 ピアノリサイタル#26 近藤譲ピアノ作品集」 プログラムノート)

 例えば「Do」の音が3回続く、次に「Re」の音がくる。このとき、まず3回の「Do」の反復を聴き、次に「Do」を期待していた私たちは「Re」の音によって裏切られる。そして3つの「Do」とひとつの「Re」に分節される。この「Do」と「Re」の在り方の「間」が関係性である。つまり関係性には一つの音や音のグループが他の音やグループと区別されて認知され、それらが少しでも対比される必要があるのである。 近年近藤はこのグルーピングというものの前提に注目し、その性質をもって「線の音楽」を更新しているのである。 

 話を鈴木治行に戻そう。これらのことを考える時、鈴木の「句読点」という考えが非常に近藤的なもの――あるいは近藤自身による線の音楽のアップデートを先取りしたもの――であることがわかるだろう。音と音との間に時間的連なりを紡ぎだすには、音に差異を作り、一度分離することが必要であり、そこには必ず対比が必要となる。これは「線の音楽」に限らない音楽の形而上学的な真理である。「線の音楽」を思考し続けた結果として近藤が辿りついたこの前提を、鈴木もまた実践しているのである。

 この≪句読点Ⅷ≫の最後のシーンでは、セットしたタイマーが鳴り響くという「対比」によってピアノの演奏が断ち切られ、第2部は幕を下ろした。

 

 

Ⅲ.

 冒頭で述べたように第3部では黒坂圭太のライブドローイングと鈴木治行の即興演奏によるコラボレーションが繰り広げられた。

 黒坂はスケッチブックに線的描画によって、基本的には抽象的なかたちを描き続けるわけだが、スケッチブックをめくり別の頁になるたびにドローイングは微細な差異をふくみつつ少しずつ変化していく。まさに「マチェーリカ」で行われていたことがリアルタイムで行われていくわけだ。
 さらに面白いのは黒坂が絵を描くという行為自体もまた、徹頭徹尾アニメイトさせようとしていたということである。鉛筆がスケッチブックとそれを映すカメラの間をなにも描くことなくただただ駆け抜けるという手の動きが何度も繰り返され、その緩急でもって時間的持続が創りだされた冒頭の場面などはその典型といえるだろう。ここでは手の動きそのものが時間芸術を作り出すモチーフ的素材であり、その後にその手の動きによって描かれる線もまた、空間に浮かぶものというよりも時間性をもって刻み込まれたものであること、つまりあらゆるものがアニメーションという形で生成される時間の1素材であることが示されているかのようだ。実際、その手の動きは描画という行為になめらかに繋がり、画面を横切る時抽象的時間の――音楽的――1モチーフとして後に頁をめくる動きと繋がっていくわけである。

 鈴木の音楽は基本的には黒坂の「ドローイングの音」を事前にサンプリングした音素材を用いてそれを即興的に組み合わせたり、加工することによって創られていたと思われる。黒坂の実際のドローイングと時に重なり時に相反するタイミングで音楽は流れてゆき、「マチェーリカ」のような音楽と映像が垣根なく時間を生み出す記号となるポリフォニックな時間が創りだされていた。

 しかし音楽というならば、黒坂がライブ中に実際に出していた「音」にもまた注目を払わなければならないだろう。黒坂が激しく絵を書きつづっていく場面にてあえて音楽が寂とするシークエンスがある。一つの作品世界の記号的安定がメタフィクショナルに打ち砕かれ、その場に鳴っていたが注目されることのなかった「音」が現前するわけである。
 また非記号的展開という意味では黒坂が途中、同じ直線を何度も描くシーンにも注目すべきだろう。モチーフとしては同じ直線が繰り返されるわけであるが、黒坂の手の微妙なブレによってその度ごとに差異が作りだされるのだ。

 黒坂の線が記号的モチーフ的に創りだす音楽性――ここでいう音楽性とは抽象的時間構造全般のことに他ならない――、「黒坂が描く」ということが記号的モチーフ的に創りだす音楽性、鈴木による黒坂のドローイングの音によって創られる音楽性、そして黒坂による線の非記号的な差異、黒坂の非記号的な音自体、それらがポリフォニックにゆらめくのである。そこで創りだされるポリフォニーは「マチェーリカ」と同じく「可塑性のゲシュタルトによるポリフォニー」であり、近藤譲と同じく――あるいは彼の音楽をさらに先まで推し進め――抽象的でかつ曖昧さを意図的に含んだ、時間構造の複雑な迷宮を創りだしていたのである。

 

 鈴木治行だけでなく、黒坂圭太もまた「線の音楽」の継承者であったのだ。

幽霊的ポリフォニー――近藤譲試論

【世界について】
 1970年代の終りごろ、ニューヨークに10か月ほど滞在していた近藤譲ジョン・ケージとしばしば話をしたという。
 打ち捨てられ、もはや使われなくなった高架道路についてケージは言う。
「美しいでしょう!」
 目を細め語るケージ。その表情はケージが石などの自然を愛でる時と同じものだった。
 後に近藤はこう総括する。

彼が愛でる「自然」とは、いわば、人がその中で暮らす「世界」のことであり、そこには、自然の生成物(あるいは自然現象)も、人工のものも、共に含まれている (近藤譲『聴く人 homo audiens 音楽の解釈をめぐって』ARTES 2013 p16) 

 しかし、同書で近藤も述べるように、ケージは人工の日常を生きる我々がその「自然」をそのままに受け入れることを説き、それで良しとしたわけではなかった。
 《4分33秒》ですら4分33秒間という時間が切り取られ「作品」となっている。
 ケージは「世界」を「作品」に引き入れることによって逆説的に「自然」と「人工」の区別をなくしていこうとしたのである。

 

 

【他者について】
 音楽を、作曲者が聴き手へ何らかの「内容」を正確に伝えるコミュニケーションと考える時、その伝達の際に生じるあらゆる偶然性は取り除かれなければならないものとなる。
 音楽は「意味」を持たず、音楽の内容は「形式」――つまりその構造あるいはフォルム――であるとする形式主義者の視点に立ったとしても同じことである。
 近藤はケージの偶然性/不確定性の音楽をこのようなコミュニケーションのモデルとは無縁であると論じる。

こうした「偶然性」(不確定性)の音楽」では、その作曲者も聴き手も、どちらも同じ立場で、訪れてくる音響(そこでの表現の実質、すなわち、「音楽〔曲〕」)に出遭う。つまり、その「音楽〔曲〕」は、確かに人工物ではあるのだが、あたかも雷鳴や虹といった自然現象のような、人の(作曲者=聴き手の)外に存在する客体である。(『聴く人』p65-66)

 偶然性/不確定性の音楽は聴き手や演奏家だけでなく、ケージ自身にとっても他者の音楽なのであり、そこには閉じた作曲者の意図は存在しないのである。

 

 

近藤譲について】
 日本には近藤譲(1947-)という作曲家がいる。東京芸術大学の作曲科を卒業した後、コンテンポラリークラシック(いわゆる現代音楽)の作曲家として世界的に活動し、東京芸術大学エリザベト音楽大学お茶の水女子大学などで教鞭をふるい、ハーバード大学のレジデンスアーティストやドナウエッシンゲン音楽祭での講義の経験すらある彼は生粋のアカデミシャンといえるだろう。また、近藤はケージの著作の翻訳なども行っているが、ある時期以降の作品に偶然性は取り入れていない。
 しかし彼の音楽や著作に少しでも触れれば分かるように、彼は一般的な(ヨーロッパの作曲技法を巧みに使いこなし作品を「伝えようとする」)アカデミズムの作曲家たちとは少し異なっているように思える。どういうことか。

 1989年11月6日に東京大学表象文化論研究室の公開講演会として行われた公演で彼は自身の作曲法について以下のように語っている。

最初の音がとにかくどれかに決まると、それを繰り返し何度も聴く。聴いているうちに、二つ目の音を思いつくわけです。そこで、最初の音のあとに2つ目の音を書く。これはばからしいほどあたり前のことだと思われるかもしれません。ともかく、私は、二つ目の音を思いついたらこんどは一つ目と二つ目の音を聴いて三つ目の音を、三つ目の音を思いついたら一つ目、二つ目、三つ目を聴いて四つ目の音をというふうに、いつも必ず初めから聴いて、順番に一つ一つ音を前に足していくというやり方で作曲していきます。この作曲方法には、何の体系も何の規則もありません。ただ聴いて、思いついた通り音を並べていくわけです。しかし、その音の思いつきが、純粋に無前提の直感のみに頼ったものかというと、実は、そうではありません。例えば、最初の音のあとに二つ目の音を何か置いたとする。そうすると、その二つの音の間には、当然、何らかの相互関係が生じます。その関係性に着目するというのが、私の作曲の方法なのです。

 

 引用を続けよう。

私が関心を持っている音相互間の関係性というものは、特に目新しいことではなくて、むしろ非常に伝統的な種類のものです。それは、例えば旋律とかリズムとかあるいは調性とかいった、非常に伝統的な音楽の構造の諸要素を成り立たせているのが、そうした関係性にほかならないからです。(中略)三つの音をそれぞれABCと呼ぶとすれば、AとBによってできる関係が、BとCによってできる関係によって裏切られるように音を繋いでいくわけです。そしてさらに、四つ目の音Dを書く際には、ABCによってできている関係が、Dによって裏切られるように音を置いていく。そんな仕方です。つまり常に何らかの関係性が成立してはいるのだけれど、しかしいつもその関係性が曖昧なものでしかないという状態(小林康夫編『現代音楽のポリティクス』 書肆風の薔薇 1991 p158,160-161)

 この「曖昧さ」という言葉は重要である。近藤の注目する「関係性」は西洋音楽において極めて伝統的なものであるが、彼の音楽においてはそれは「曖昧」にしか現れない。
 彼は主著『線の音楽』の中で同じく「曖昧」について言及しているのであるが、そこに記されている、彼の作品《オリエント・オリエンテーション(1973)》の作曲法によれば、15の音を選び出した後に乱数表を使ってそれをランダムに並べ、その後に作曲=操作を始めたという。この偏りのある(選ばれた音が15音であることに注目)ランダム性は核音が現れては消え、また違った核音が現れては消える感覚をもたらす。近藤はこれにさらに、同じ旋律を2声間でずらしたり、2声間に微細な差異を導入することによって様々なフレージング(グルーピング)の可能性を創りだしている。
 そして曖昧な核音と微細な差異による音楽によって聴きとられる音の連なりや調性感は聴く度ごとに異なっているという。

 

 

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  近藤譲『線の音楽』(ARTES  2014 p86-87)より≪オリエント・オリエンテーション≫の部分的な楽譜。

 

 

  図Eが元の音列であり、図Fがランダムに選びだされた音列の一例。図A~Dはその実際の運用である。
 先に述べたように音を2声間でずらしたり(図B)、微細な差異が導入されたり(図C)、その二つが組み合わされたり(図D)といった微細な操作が行われている。

 

 ではこのような音楽的な関係性(構造)が現れては消える「曖昧さ」がもたらすものについてより具体的に理解するために、彼の初期作品《歩く WALK(1976)》の冒頭の簡単なアナリーゼを試みてみようと思う。

  

f:id:ReiHaimachi:20171227132238j:plain 近藤譲 《歩く Walk》 peters 1976 p1)を元に作成

 

 

 簡素な楽譜であるが故に各音の関係性がはっきりと見て取れるだろう。2つの声部があるがそれは実質的にひとつの旋律から導き出されているといえる。
 まず冒頭は「Do」の音のユニゾンによる反復から始まる。これは4小節で1セットと考えてよいだろう。楽譜上には赤の括弧でそれを示している。連続する「Do」は4小節目で途切れ、そこでグルーピングも終了する。この途切れは前の引用で近藤が述べていた、裏切り(異化)の最も単純な形に他ならない。次にまた4小節が同じように繰り返される。ここでまた高次の(4小節を1単位とした)反復が生じる。しかし、次の小節でそれは裏切られる。水色の括弧で示した部分に注目してほしい。「Do」が2回続いた後の10小節目では音が途切れてしまうのである。これを契機として「Do」の反復は崩れ始める。
 13小節目から始まる旋律に書き込んだ緑(フルート)と紫(ピアノ)の四角い枠を見てほしい。ここは疑似カノンとなっておりそのズレは2重のものである。ひとつにまず、カノンとしてのズレ。カノンにおいては一つの旋律が描いた軌跡の記憶をそれを模倣する旋律が喚起する……と同時に初めの旋律は次の軌跡を描き始める。ここにはズレという関係性を聴く西洋に伝統的な聴取の快楽が存在している。しかし《Walk》においてはそれだけでなくもうひとつ、フルートの声部に挿入された16部休符によるズレが存在する。このズレにより軌跡の記憶は参照先をかわされ、聴き手はより主体的にカノンを聴取しようとすることによってのみ、それをカノンとして聴くことができる。このように曖昧にされたグルーピングは私たちが身に付けてきた音楽の「聴き方」を焙り出す
 紫の枠の終わりには「Re」→「Do#」の目立つ跳躍が見られる。この跳躍は一種の疑似モチーフとして2小節先の「Re」→「Si」やその次の小節の「Re」→「La」につながるものだが、共通点は跳躍というだけであると同時に、それが現れる間隔に規則性がみられないため、これはあくまでモチーフを聴こうとする私の耳が聴いた繋がりに過ぎず、他の耳がどう聴くかはわからない。音楽は意図的に「曖昧」である。また、ここの黒い丸で囲んだ小節は「Fa」、「A」、「Do」の各音がありヘ長調のように聴こえる。そのように聴こうとすれば冒頭の「Do」の連打はあたかも「属音連打」の亜種のようにも聴こえるし、先のカノンに現れた「Si♭」もヘ長調に属する音だったことがわかる。しかし、この聴取もまた絶対的なものではない。紫の枠に現れた「Do#」はヘ長調の音階に含まれる音ではないからだ。ヘ長調としてここまでの音楽を聴こうとする者はこの「Do#」をその次の「Do」へ繋ぐオクターヴ違いの倚音として聴くだろう。無論、それもまた聴き方の一つである。
 19小節目から再びカノンが始まるのだが、それは下段にかかれた(だいだい色で囲んだ)「Stop!」という指示によって途中で、未完のまま断ち切られてしまう。これもまた「曖昧」さを創りだす。
 この後に始まるピアノの「Si♭」→「Do」→「Re」……は先のカノンの途中で現れた音形と類似のものである。ここでは疑似的にモチーフが回帰している。その後それに重なる形で「F」→「La」→「Do」が現れる。ピアノ左手の8分音符のパルス(だいだい色の丸で囲われている)は後に再び現れる疑似モチーフの一つである。楽譜における囲みや矢印を見れば分かるように、この単純に見える数小節には実はさまざまな系列の関係性が流れ込んでいる。ここで何を聴くかは聴き手によって異なるし、私が発見していない何かがまだあるかもしれない。

 装飾のない純粋なグルーピング。しかし曖昧なグルーピング。
 その曖昧さを聴いていくことは私たちに集中的聴取を要求する。そしてまた、その関係性が曖昧であるが故に、聴き手一人一人の聴取ごとの一回一回の結果が違った音の関係として現れる可能性を鮮烈に内包している
 そして私たちがそれぞれの音を聴きだす時、そこに働くのは主体性であると同時に、聴いてきた音楽によって自らに内面化された「聴き方の型」でもある。
 この時、自己の聴取の中に自己の歴史が、また、あの簡素な一本の旋律の中に無数の音楽とそれを作った無数の他者の声が、時には数千年の時を超えて響いてくるのである。

 前述した公演で彼は作曲に「体系」や「規則」を持ち込まず、ただ「聴くこと」を重視していた。近藤がその内面において聴いた他者の声を、私たちは聴く。しかし、その時に聴く他者の声は別々ものなのである。近藤は自身の著書と同名のCD『線の音楽』の自作解説でこう述べている。

 これは拒絶の音楽を探し求める旅のひとつの道程である。拒絶の音楽は、音楽の拒否を意味するのではない。それは音楽がもつ一つの態度――作家が音と音楽とに対してとる特定の態度のもとで作られた音楽が、作家自身、奏者、そして聴衆に対して一様に示す作家の態度――が人に対して示す拒絶、音楽への人の参加の拒否である。この度は、音楽を人間中心主義者の手から切り離すためのものなのだ。(近藤譲『線の音楽』ライナーノーツ ALM RECORDS 2014

 また彼の「体系」や「規則」に対する批判的な態度はケージの「世界」そのものを聴くことという意識にもつながるものである。

 例えば伝統的な旋律のような、非常に明確にまとまって聴こえるようなものを書くと、聴き手は、その旋律を捉えたとき、もう音そのものは聴かなくなるのです。つまり、聴くのは旋律のほうであって、それを構成
する一個一個の音には、もう誰も関心がなくなるわけです。(『現代音楽のポリティクス』 p162-163)

 近藤の音楽において一音一音は曖昧な関係性のネットワークによって逆説的にその固有性を再発見され、一つの音が他の音に積極的に働きかけるアクターとなる。そして、描かれた線は他者の声を呼び寄せ、他者として我々――近藤自身にさえも――現前するのである。

 

 

【世界の内在性について】
 近藤譲は一見伝統的な時間芸術としての作曲を行ないながら、前もって用意された作曲者の意図のようなものをそこから消し去り、他者の声を聴き、他者の声を私たちに聴かせる。

 しかしケージと違って、それは「内在的世界」において行われるのである。
 そして近藤の音楽で先端化されている他者性は、その他のすべての音楽に立ち会う際にも「聴き方」を主体的に意識することによって立ち現れることとなる。

 

 

【時間とポリフォニー
 近藤の音楽は時間的である。音楽自体が時間芸術である以上これは当たり前のことを言っているように思えるかもしれない。しかし現代音楽の歴史をひとたび眺めれば話は変わってくる。例えばブーレーズのような総音列音楽を聴くとき、それが楽譜上厳格な時間的秩序を持ったものであるにもかかわらず、私たちはその秩序を秩序として知覚することができるとは限らない。その秩序がしばしば聴覚性を超え出ているが故に時にそれはその瞬間の音響――時間的構造=グルーピングなき音の集まりの質感――として響くだろう。近藤は言っている。

 

ぼくは、当時のブーレーズの衝撃というのを、非常に具体的に言えると思うんです。それは非組織的組織あるいは組織的非組織というものの衝撃ですね。彼は徹底的に組織的に音楽を作った。だけど聴こえる結果はほとんど非組織だった。(中略)つまり、これは組織の極限だと言ったわけです。組織の極限がカオスになるということの衝撃だと思うな。(『現代音楽のポリティックス』 p27)

 

 このような、構造の探求を行なうことの限界を目の当たりにした時、音を音響という全体性として扱う方向に先端化していったものがクセナキスの統計的書法であり、クラスター書法の再評価に他ならない。
 このような空間の秩序ではなく、彼は音楽に音の一つ一つを順に束ねていくような時間を音楽に、別のやり方でもう一度呼び起こしたのだ。
 関係を聴くときにそこに流れる時間について、先に引用した近藤の公演にて、司会を務めた小林康夫は言っている。

 

これはぼくのスペキュレーションなんですが、一番最初の音を置いて、その次に何の音が来るかと考える――そうやって作っていく方法論ということは、よくわかります。そこで、もし裏切りというなら、ひょっとしてそこで作曲家としての近藤さんが求めているのは、最初の音の前の音だというように考えてみたらいかがなんでしょうか。(中略)一方は時間を進めるけれども、進めておきながら、なおかつ裏切る、つまり逆行する。ここから先はまったくスペキュレーションなんですが、その逆行というのが最初の音の前にあるべき、そして絶対に耳には聞こえない、音を求めて行くのではないか――、非常にメタフィジックですが。(『現代音楽のポリティックス』  p189)

 

 例えば彼の作品《視覚リズム法(1975)》では5声の声部による音楽が6度繰り返されるのであるが1ループごとに1声部ごとに旋律が微細に変化していき、最後には全ての声部が変化する。1つ1つの声部は断片的なため、それらが繋がれてひとつの旋律線をなしているのではあるが、その旋律線の異化がループごとに聴きとれるわけである。常に徹底して過去の出来事を参照とする音楽の在り方は、まさに小林のいうところの逆行する時間といえる。
 しかし、ここで小林の言葉に付け足すことがあるとするならば、遡行する時間と流れる時間という線に加えられるべき、内在的世界に満ちる様々な「過去に流れていた音楽という時間」という前述した線の存在だろう。

 近藤の音楽においては、たったひとつの、曖昧で、今にも消え入りそうな旋律の中に無数の透明な旋律が響いている。
 私はこれを〈幽霊的ポリフォニー〉と呼んでいる。

 

 

 最後に近藤譲ステートメントを引用してこの文章を締めくくろうと思う。私たちの世界が異なり、変容を続ける以上、いつの日か世界が終わるその日まで、その声は響き続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。

作曲とは「聴くこと」であり、「聴くこと」を通して、自己を外へ、他者へと開く行為なのだ。(『聴く人』 p78)